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『世界のエゴ、日本のエゴ』

 

『世界のエゴ、日本のエゴ』

──なぜ日本は、自分で自分の芽を摘むのか──

 

エゴ(自我)には、実は二種類あります。

 

 

 

一般に「エゴ」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、自分勝手で、自らの欲望(煩悩)を満たすために他人を操作し、命令し、支配しようとする、攻撃的で暴力的なあの姿でしょう。私はこれを、欧米社会を中心に世界を覆っている「世界のエゴ」と呼んでいます。

 

 

 

ところが、これとはまったく異なる顔をしたエゴが、この国には静かに、しかし深く根を張っています。私が「日本のエゴ」と呼んでいるものです。それは、自分をよく見せたい、批判されたくない、リスクを取りたくない──そんな、徹底的に自己保身に走るエゴです。

 

 

 

一見、この二つは正反対に見えます。しかし、エゴを一本のスケール(ものさし)と捉えるなら、両者はその両端に位置しているだけであって、ベクトルの向きが違うだけで、エゴの強さそのものはまったく同じなのです。

 

 

 

前者が筋トレで筋肉を鎧にして硬直している姿(世界のエゴ)とすれば、後者は体の芯も失った虚脱・脱力(日本のエゴ)した姿といえるでしょう。どちらも実際は攻撃的なあり方で、他責であり、頑固・頑迷で柔軟性がありません。

 

 

このテーマについて、先日投稿した「森保ジャパンの真の敗因」に対し、Mariko Yda さんから、思わず唸るような素晴らしいコメントをいただきました。ここでご紹介するとともに、私なりの考察を重ねてお伝えしたいと思います。ちょうど今年の年末から来年の年頭にかけて発表を予定している「エーテル統一理論」の、形而上学パートの核心にも触れる、極めて重要な話題でもあるからです。

 

 

 

(Mariko Yda さんからのコメント)

今回のW杯は地元でやっているのに見る時間が確保できなくって、日本の試合も一度も見てませんが、ブラジルと当たると知った時「無理だな」と思ったのが現実になりました。前評判が高いチームだったようなので、私の予測に夫は目を丸くしてましたが、私が思ったのは「個々の選手の能力」などではなく、「日本」という団体に対しての予測でした。

先生が書いてらっしゃるそのままです。特に日本人の「quality」が素晴らしいだけに、システム下のプレッシャーで麻痺してしまった同胞を見るのは、時にとても歯痒いです。日本の外で生活すればきっと誰もが経験すると思いますが、「外」では合わない人同士を無理やりに同じ矛に収めて「調和」させることはありません。合わない同士はそれこそチームメートでもクラスメートでも仕事のチームでも、真っ向からぶつかって「殺し合い」ます。それをまとめるのがリーダーの役割で、その「カオス」の中で生まれる一つの方向性は、無理やり仕込まれた調和では太刀打ちできない強さを発揮します。

日本のやり方は必ずどこかで「個を殺す」必要が出てきて、それが土壇場で完全な「弱点」として、完璧に放出されてしまいます。制御されることに慣れすぎていて、本能の声を無視してしまうのでしょうね。今回も敗れたチームに労いと称賛の声をかけている風景を見て、これが変わる日は来るのだろうか?と首を傾げています。もちろん野次を飛ばす必要はないですけれど。選手が全力を尽くしたのは、百も承知です。でもそのつもりがなければサッカーを続け、代表には入りはしないでしょう。選手は自分の選択で、(「幸運」にもシステムから選ばれ)選手なのです。

それを労う必要は、本当にあるのか?全力を尽くしたことを「認知されること」が本当に必要なのか?これが日本のぬるさです。自分の努力は、誰が知ることがなくてもその価値は変わりません。和を持って尊しとする、という言葉が、本当に意味を持つなら、それが曲解されてることを理解しなければ、本当の「和」には到達できないな、と感じています。日本人の真の美点をもう一度みんなで掘り戻していきたいですね。

(掲載終了)

 

⭐️「個を殺す」ことが、なぜ美徳になってしまったのか

素晴らしい考察です。まさに私が言いたかったことを、見事に言語化してくださいました。

 

 

思考よりも感情──それも、歪んだ思考(エゴ)で汚染された感情──が優先される風潮のある日本では、冷静で論理的な思考はしばしば反感を買います。ネット上で日常的に起きる炎上を眺めれば、それは一目瞭然です(ただし、そのネット空間もまた、特定の団体による操作が入り込んでいることは指摘しておかねばなりません)。

 

 

 

今回のW杯でも、選手選抜が明らかに偏っていたために、本来は攻撃こそが仕事であるはずの選手──堂安選手や中村選手など──が、自らの「個」を封印し、ほとんど守備に回らざるを得ず、見ていて苦しそうでした。自我を捨てるという一点では、個人の修行としては良い経験だったのかもしれません。しかし、それでは人工的に組み立てられたサッカーという競技において、勝つことはできません。彼らは、自分自身の修行のためにピッチに立っているわけではないのですから。

 

 

 

そもそも人間というのは、他人と思考が異なるからこそぶつかり合う生き物です。だからこそ、その衝突をマネジメントすることこそが、現場を預かる監督の本当の仕事のはずです。ところが、日本ではその衝突というリスクを避けるところから話が始まり、「個」を殺すことに美徳を見出す行動様式・風潮が、この国あるいは個人の伸びしろを丹念に摘み取っている。自分たちの手で、自分たちの芽を摘んでいるのです。そして気がつけば、息苦しい社会を自らの手で作り上げてしまっている──私にはそう見えて仕方がありません。

 

 

 

明治以降に仕組まれた度重なる戦争(日清・日露・太平洋戦争)での相互監視・自己萎縮。最近ではコビットのときのマスク装着、消毒やワクチン接種を自らが相互監視していました。まさに同調圧力というエゴ丸出しの攻撃的なあり方です。

 

 

 

「個」を殺すという行為は、本来、自分自身の意志において、自分の人生の中で行うべきものです。勝利を目的として人工的に作られた戦争や競技、あるいは経済市場において、他人から強要されるべきものでは決してありません。他人に「個」を殺すことを強要する──その根には、強烈なエゴが潜んでいます。そして、この同じ「空気」が、日本の会社組織のあらゆる階層にも、じっとりと漂っている。これでは、変化を厭わずスピードで勝負を仕掛けてくる海外の他国──しかも今や、そのスピードに質さえも追いつき、日本はその二軸においてすでに置いていかれています──に、まったく歯が立つはずがありません。

 

 

 

⭐️「空気」という名の、強いエゴ

驚くべきことに、日本サッカー協会からは、何の検証もないまま、森保監督への続投打診があったと報じられています。リスク・責任を避けたいという保身的なエゴが透けて見えます。日本という社会では、「空気」というエゴで汚れた感情──純粋な動物や子どもが持つ本能的な感情とはまったく別物です──が絶対視され、「冷静な思考」はいつも引っ込められてしまう。

 

 

 

しかし、この「空気」こそが、実は強いエゴの現れそのものなのです。批判されたくない、リスクを避けたい、議論を避けたい──これらはすべて、典型的な、強烈な自己保身のエゴにほかなりません。これが同調圧力となって個性や違う意見を抹消します。

 

 

このままでは、日本は自ら萎縮し、宗主国(およびその下部組織である特定の団体)へと忖度し続ける国として、これからも搾取され続けるだけではなく、自らの手でゆっくりと凋落していくことになるでしょう。

 

 

「和を以て貴しとなす」──この言葉は、決して個性を殺すことを意味してはいません。個の違いをまず受け入れた上で、同じ目標に向かって進むこと、その気高い姿勢を指しているのです。そして、現在のサッカーや野球界のように、その真の意味での「和」を体現できるリーダーの不在こそが、何の論理的検証もないまま人権の削除目的の憲法や皇室典範の改正・緊急事態事項の設置へと突き進むような、エゴ丸出しの悪行を生み出しているのです。

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