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『あなたの顎が小さくなっている!―現代人を襲う「見えない健康危機」の正体』

『あなたの顎が小さくなっている!―現代人を襲う「見えない健康危機」の正体』

⭐️私たちの顎に何が起きているのか

朝食のトーストを頬張りながら、あなたは自分の顎が祖先より小さくなっていることに気づいているでしょうか。実は今、人類の顎に前代未聞の変化が起きています。それはまるで、何世代もかけて育ててきた庭が、わずか数十年で荒れ果ててしまうような急激な変化です。

 

街を歩けば、歯列矯正のワイヤーを付けた子どもたちの姿を頻繁に目にします。歯科医院の待合室には親知らずの抜歯を控えた若者たちが並び、夜になれば睡眠時無呼吸症候群で悩む中年男性がいびきに苦しんでいます。

 

これらは一見バラバラの問題のように見えますが、実は一つの根っこから生えた枝です。その根っことは、現代人の「顎の退化」という、静かに進行する健康危機に他なりません。

 

2020年にスタンフォード大学とカリフォルニア大学の研究チームが生物科学の権威ある学術誌『バイオサイエンス』に発表した論文は、この現象を「顎の流行病(Jaw Epidemic)」と呼び、警鐘を鳴らしました(1)。

彼らの調査によれば、現代の工業化社会では、生涯のうちに歯列不正の治療を受ける人の割合が20パーセントにも達しているといいます。これは、まるで人類という種全体が、ゆっくりと、しかし確実に、ある種の「退化」を経験しているかのようです。

 

⭐️タイムマシンで見る顎の歴史

中世の墓地から掘り起こされた頭蓋骨を現代人のそれと並べて比較すると、驚くべき違いが浮かび上がってきます。2021年の研究では、1100年から1700年にかけての中世・近世初期の人々と、1700年から1900年にかけての産業革命期の人々、合わせて234個体の下顎を詳細に分析しました(2)。その結果は、まさに「歯の革命」と呼ぶべき劇的な変化を示していました。

 

中世の人々の顎骨は、現代人のものと比べて驚くほど大きく、しっかりとしていました。親知らずが正常に生えるための十分なスペースがあり、歯が混み合って生えるということはほとんどありませんでした。

 

それはちょうど、ゆったりとした邸宅に家族全員が快適に暮らしているような状態です。ところが産業革命を境に、この状況は一変します。顎は次第に小さくなり、歯が生えるスペースは狭まっていきました。それはまるで、大家族が次々と引っ越してきて、同じ家がどんどん窮屈になっていくようなものです。

 

さらに時代をさかのぼって、狩猟採集時代の人々の骨を調べた研究者たちは、もっと興味深い事実を発見しました。工業化以前の人類、つまり農耕が始まる前の狩猟採集民たちには、歯列不正や親知らずの萌出障害がほぼ皆無だったのです(1)。

彼らの顎は、現代人から見れば驚くほど大きく、すべての歯が整然と並ぶための十分な空間を持っていました。

 

⭐️たった15世代で起きた異変

ここで重要な疑問が浮かび上がります。人類の顎は、なぜこれほど急速に小さくなったのでしょうか。中世から現代までの期間は、生物学的な時間軸で見ればほんの一瞬、わずか15世代から20世代程度に過ぎません。これは進化論的な時間スケールからすれば、瞬きするほどの短さです。

 

生物の進化は通常、何千世代、何万世代という気の遠くなるような時間をかけて進みます。人類の顎の変化は、進化のスピードをはるかに超えています。それは遺伝子の変化ではなく、別の何かが原因であることを強く示唆しています(1)。

 

実際、一世代のうちに顎の大きさが変化したケースさえ報告されています。インドの村で生まれた祖父がイギリスに移住し、そこで育った息子、さらにイギリスで生まれた孫の三世代を比較した写真記録があります。そこには明らかに、世代を経るごとに顎が後退し、顔の前方成長が減少していく様子が写し出されていました(1)。

 

遺伝子は同じなのに、わずか二世代で顎の形が変わってしまったのです。これは遺伝ではなく、環境が私たちの体を作り変えていることの動かぬ証拠と言えるでしょう。

 

⭐️食べ物が顎を作る

では、何が人類の顎を変えてしまったのでしょうか。その答えの鍵は、私たちが毎日口にする食べ物にあります。2004年にハーバード大学の人類進化生物学者ダニエル・リーバーマン(Daniel Lieberman)教授らが『ヒューマン・エボリューション誌』に発表した研究は、食物の硬さと顎の成長の直接的な関係を明らかにしました(3)。

 

研究チームは、動物を使った巧妙な実験を行いました。遺伝的に同じ動物を二つのグループに分け、一方には硬い食物を、もう一方には柔らかく加工した食物を与えて育てたのです。

 

結果は予想以上に明確でした。柔らかい食物で育った動物たちは、咀嚼時に顎にかかる力学的負荷が著しく減少し、その結果として上顎と下顎の前方への成長が有意に減少したのです。顔面全体のサイズも縮小していました。

 

これは、骨が力学的刺激に応答して成長するという基本原理を示しています。まるで筋肉が運動によって鍛えられるように、骨もまた適切な刺激を受けることで成長します。

 

建物の柱が荷重に耐えるために太くなるように、顎の骨も咀嚼という機械的刺激を受けることで、しっかりとした構造を作り上げるのです。逆に言えば、その刺激が不足すれば、骨は十分に成長しません。

 

⭐️狩猟採集民は年間4000万回噛んでいた

人類の祖先たちが、どれほど食べ物を噛んでいたのでしょうか。2016年に科学の最高峰誌『ネイチャー』に掲載された研究は、旧石器時代の人々の咀嚼回数を具体的に計算しました(4)。

 

研究者たちは、現代人の被験者に未加工の肉や地下茎類(根菜のようなもの)を食べさせ、飲み込めるようになるまでに必要な咀嚼回数と力を測定しました。

 

その結果は驚くべきものでした。未加工の地下茎類だけを食べる生活を続けた場合、一日に必要な2000キロカロリーを摂取するには、年間でなんと約4000万回も噛む必要があるというのです。

 

ところが、肉を食事に加え、さらに石器で肉をスライスする技術を使うと、状況は一変します。肉を3分の1含む食事で、かつ石器でスライスした場合、年間の咀嚼回数は約250万回も減少し、咀嚼に必要な力も26パーセント減少しました(4)。これは総咀嚼量の17パーセント削減に相当します。

 

しかし、この減少は人類進化の過程で段階的に起こったものでした。問題は、農耕革命以降、特に産業革命以降に起きた急激な変化です。中世の人々が食べていたパンは、粗く挽いた粉で作られた硬くて粗い食べ物でした。

それはまるで、現代の全粒粉パンをさらに硬くしたようなものです。ところが19世紀になると、製粉技術の発達により、細かく精製された柔らかい白パンが普及しました(2)。この変化は、まるで固いせんべいから柔らかいマシュマロに主食が変わったようなものだと言えます。

 

⭐️咀嚼運動そのものが変わってしまった

食べ物が柔らかくなったことで、私たちは単に噛む回数が減っただけではありません。噛み方そのものが変わってしまったのです。2021年の研究は、中世の人々と産業革命期の人々の歯の磨耗パターンを3次元で詳細に分析し、咀嚼運動の変化を可視化しました(2)。

 

中世の人々の歯の磨耗パターンを見ると、下顎が横方向に大きく動きながら、複雑な軌道を描いて食べ物をすりつぶしていたことがわかります。それはまるで、石臼で穀物を挽くときの円を描くような動きです。

 

ところが産業革命期になると、この横方向の動きが著しく減少し、咀嚼運動は単純な上下運動に近づいていきました。これは柔らかい食べ物には複雑な咀嚼運動が必要ないことを示しています。

 

自然の動きはつねにS字カーブであり、直線のものは人工的なもの以外ありません。

 

現代人の咀嚼の動きが単純な上下運動という直線的なものになっているということは、現代人が自然の原理から遠ざかっていることを示唆しています。

 

つまり、咀嚼によってあらゆる心身の不調を来す可能性があるということです。

この変化は、歯の使われ方にも現れています。中世の人々は歯の広い範囲を使って食べ物を処理していましたが、産業革命期の人々は歯の一部しか使わなくなりました。使われない機能は退化する。これは生物の基本原理です。

 

多くの伝統文化では、食べ物をよく噛むことの重要性が説かれてきました。「一口三十回噛みなさい」という教えは、単なる迷信ではなく、深い生理学的真実に基づいていたのです。

 

参考文献

1. Kahn S, Ehrlich P, Feldman M, Sapolsky R, Wong S. The jaw epidemic: Recognition, origins, cures, and prevention. BioScience 2020; 70(9): 759-771.

2. Silvester CM, Kullmer O, Hillson S. A dental revolution: The association between occlusion and chewing behaviour. PLoS ONE 2021; 16(12): e0261404.

3. Lieberman DE, Krovitz GE, Yates FW, Devlin M, St Claire M. Effects of food processing on masticatory strain and craniofacial growth in a retrognathic face. Journal of Human Evolution 2004; 46(6): 655-677.

4. Zink KD, Lieberman DE. Impact of meat and Lower Palaeolithic food processing techniques on chewing in humans. Nature 2016; 531(7595): 500-503.

 

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