『噛まないことの健康への悪影響』
⭐️世界規模で確認された顎の縮小
この現象は、イギリスだけの話ではありません。2011年に『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』に掲載された研究は、世界中の人類集団を調査し、農耕への移行が顎の形態に与えた影響を明らかにしました(5)。
アフリカのヌビア地方では、農耕が導入される前と後の人々の頭蓋骨を比較した研究があります。農耕導入後、眼窩下高(目の下の顔面の高さ)は7.8パーセント、咬筋付着部の長さは26.3パーセント、下顎体の長さは22パーセント、下顎結合部の厚さは15.3パーセントも減少していました。

これらの変化は、脳の大きさが増加していた時期に起こっており、栄養状態の改善にもかかわらず顔面が小さくなったことを示しています(3)。
オーストラリアの先住民アボリジニの研究も興味深い事例を提供しています。
伝統的な狩猟採集生活を送っていたアボリジニの集団が、わずか一世紀の間に近代的な加工食品中心の生活に移行しました。その結果、彼らの子孫の世代では、歯列不正や顎の発達不全が急増したのです(5)。
遺伝的には同じ集団であるにもかかわらず、食生活の変化だけでこれほどの変化が起きたのです。
⭐️ 赤ちゃんの育て方も顎に影響する
顎の発達に影響を与えるのは、硬い食べ物を噛むことだけではありません。実は、人生の最初期、赤ちゃんの頃の育て方も大きな影響を与えています(1)。
母乳で育てられた赤ちゃんと、哺乳瓶で育てられた赤ちゃんでは、口腔周囲の筋肉の使い方が異なります。
母乳を飲むには、赤ちゃんは舌を巧みに使い、顎の筋肉を複雑に動かさなければなりません。
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一方、哺乳瓶からは、赤ちゃんが少し吸えばミルクが簡単に出てきます。
さらに、現代の多くの親が生後6か月頃からスプーンで離乳食を与え始めます。しかし研究者たちは、この早すぎるスプーン給食が問題だと指摘します(1)。
スプーンから食べ物をすすり取る動作は、本来の成熟した嚥下運動とは異なります。それは、子どもが自分で食べ物をつかみ、口に運び、噛んで飲み込むという自然な学習過程を妨げてしまうのです。
⭐️口の中の姿勢が顎を決める
さらに驚くべきことに、食べていないときの口の姿勢、つまり安静時の舌や顎の位置が、顎の成長に決定的な影響を与えることがわかってきました(1)。
正しい口腔姿勢とは、口を閉じ、歯を軽く接触させ、舌を上顎(口蓋)にぴったりと密着させた状態です。
この姿勢を保つと、口の中に軽い陰圧(負圧)が生じ、この持続的で優しい力が、顎の骨の成長を適切な方向へ導きます。
ところが現代の子どもたちの多くは、口を開けたまま、舌が低い位置に落ち込んだ状態で過ごしています。

アレルギー性鼻炎で鼻が詰まり、口で呼吸せざるを得ない子どもたちも増えています。
工業化社会では、5歳未満の子どもの20から25パーセントが、鼻腔の閉塞を経験しているという報告もあります(1)。鼻が詰まれば、自然と口を開けて呼吸するようになり、舌は本来あるべき位置から離れてしまいます。
この悪い姿勢が続くと、顎の骨は下方に、そして後方に回転するように成長してしまいます。すると顔は縦に長くなり、歯科医が「ロングフェイス症候群」と呼ぶ状態になります。さらに、気道は狭くなり、呼吸がしづらくなるという悪循環に陥ります(1)。
⭐️睡眠の質まで脅かされている
顎が小さくなることの影響は、単に歯並びが悪くなるという美容上の問題にとどまりません。それは私たちの健康、特に睡眠の質に深刻な影響を及ぼしています(1)。
顎が小さくなると、舌を収めるスペースも狭くなります。特に仰向けに寝たときに、舌が喉の奥に落ち込みやすくなり、気道を塞いでしまうのです。これが閉塞性睡眠時無呼吸症候群(OSA)です。

OSAは、睡眠中に呼吸が一時的に止まる状態を繰り返す病気で、世界人口の少なくとも5パーセント、多い集団では20パーセントもの人々が罹患していると推定されています(1)。
睡眠時無呼吸は、単に夜の睡眠が浅くなるだけでなく、全身に深刻な影響をもたらします。呼吸が止まるたびに体は緊急事態と認識し、交感神経を活性化させます。これは、夜中に何度も火事のベルが鳴り響くようなものです。
その結果、心血管系に負担がかかり、心臓病のリスクが高まります。さらに、がん、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、さらにはアルツハイマー病との関連も指摘されています(1)(これは、夜中のストレスホルモン放出によってリポリシス(脂肪分解)が起こり、プーファが血液中に溢れ出すからです)。
子どもたちの場合、睡眠時無呼吸は成長や発達、学習能力にも影響を与えます。正常体重の子どもであっても、2から7パーセントがOSAを発症しているという報告があります(1)。これらの子どもたちは、日中の眠気、集中力の低下、情緒不安定などの症状を示すことがあります。
⭐️遺伝という言い訳を捨てる
歯科医院に行くと、「歯並びは遺伝です」と言われることがよくあります。実際、アメリカの医療情報サイトでも、「歯並びの悪さや噛み合わせの問題は、目の色や手の大きさと同じように遺伝する特徴です」と説明されています(1)。しかし、これは大きな誤解です。
顎の大きさや形は、遺伝の情報を持ちながらも、環境からの刺激によって最終的な形が決まる、非常に柔軟な形質です(1)。
たとえば、同じ遺伝傾向を持つ一卵性双生児でも、育つ環境が異なれば顎の大きさは変わります。フィンランドの研究では、中世と現代の集団を比較したところ、遺伝的な違いがほとんどないにもかかわらず、下顎の長さが6パーセントも減少していたことが報告されています(1)。
これは、遺伝ではなく、環境が顎の形を決めていることの明確な証拠です。
「遺伝だから仕方ない」という諦めは、私たちから予防の機会を奪います。もし本当に遺伝だけの問題なら、何もできません。しかし環境要因が主因であるならば、その環境を整えることで、子どもたちの健康な顎の成長を助けることができます。
⭐️産業革命がもたらした食の革命
では、具体的にどのような環境の変化が、人類の顎を変えてしまったのでしょうか。その答えは、18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命にあります。
産業革命以前、中世ヨーロッパの人々の主食はパンでした。しかしそのパンは、現代の私たちが想像するものとはまったく異なっていました。穀物は石臼で粗く挽かれ、ふすま(穀物の外皮)や胚芽もすべて含まれていました。
さらに、石臼から剥がれた小さな石の粒子も混入していました。このような粗挽き粉で作られたパンは、硬く、粗く、噛みごたえのある食べ物でした(2)。中世の人々がこのパンを食べるには、現代人の何倍もの咀嚼が必要だったでしょう。
ところが産業革命により、製粉技術は劇的に進歩しました。ローラーミルという新しい機械が導入され、穀物を非常に細かく粉砕できるようになりました。ふすまや胚芽は取り除かれ、純白の小麦粉が大量生産されるようになったのです。19世紀末までには、柔らかく白いパンがすべての社会階級に普及しました(2)。
この変化は、まるで砂利道が舗装道路になったような劇的なものでした。柔らかいパンは、ほとんど噛まなくても飲み込めます。咀嚼回数は激減し、顎にかかる力学的刺激も大幅に減少しました。そして、この変化はわずか数世代のうちに起こったのです。
さらに19世紀後半から20世紀にかけて、缶詰食品の発明、冷蔵技術の発達などにより、食品はますます加工され、柔らかくなっていきました。現代では、離乳食はペースト状に加工され、学校給食のパンは綿のようにふわふわで、スナック菓子は口の中で溶けてしまいます。
これらすべてが、人類史上かつてない「超柔らかい食環境」を作り出しているのです。
⭐️室内生活とアレルギーの増加
食べ物の変化に加えて、生活環境の変化も顎の発達に影響を与えています。産業革命以降、人々は農村から都市へ移住し、屋外での労働から室内での仕事へとシフトしていきました(1)。
室内で過ごす時間が増えると、何が起こるでしょうか。まず、換気が不十分な室内では、大気汚染の濃度が高くなります。
さらに、自動車の排気ガスによる大気汚染も、アレルギー性鼻炎の増加に拍車をかけています。その結果、現代の子どもたちは、鼻が詰まりやすく、口呼吸をしやすい環境に置かれているのです(1)。
口呼吸が習慣化すると、前述したように舌の位置が下がり、正しい口腔姿勢が失われます。さらに、口を開けたまま眠ることが多くなり、顎の成長にとって最も重要な夜間の時間帯に、誤った力学的刺激が加わり続けることになります。
⭐️眠り方さえ変わってしまった
人間の睡眠習慣も、顎の発達に影響を与えている可能性があります。私たちの祖先、狩猟採集民は、地面の上に直接、あるいは簡単な寝床で、主に横向きに寝ていました。枕も使いませんでした(1)。
横向きに寝て、枕を使わない姿勢は、実は口を閉じた状態を保ちやすい姿勢です。さらに、野生動物や敵の襲撃を警戒しながら眠る生活では、いびきをかくことは命取りになりかねませんでした。つまり、自然淘汰の圧力が、口を閉じて静かに眠る能力を高めていた可能性があります。
ところが現代人は、柔らかいベッドに高い枕を使い、安全な室内で、仰向けに寝ることが多くなりました。仰向けの姿勢では、重力によって舌が喉の奥に落ち込みやすく、気道が狭くなります。高い枕は首を前に曲げ、さらに気道を圧迫します。これは、まるで水道管を折り曲げて水の流れを悪くしているようなものです。
さらに仰向けの姿勢では、拙著『水と命のダンス』でお伝えしたように、夜間の脳のゴミ排出がうまくいかなくなり、アルツハイマーなどの認知症のリスクが高まります。
⭐️今日から始める正しい口腔姿勢・鼻呼吸
顎の退化が環境要因によって引き起こされたものであるならば、環境を整えることで、その傾向を逆転させることも可能です。
実際、若い子どもたちの顎の成長を正常化させる臨床的アプローチが、いくつか成功を収めています。その正しい口腔姿勢の獲得です。具体的には、口を閉じ、舌を上顎に密着させ、歯を軽く接触させた状態を、意識的に維持する訓練です。
最初は意識的に行う必要がありますが、やがてそれが自然な習慣となり、無意識のうちに正しい姿勢が保たれるようになります。子どもたちがこの正しい姿勢を幼少期に身につければ、顎は本来あるべき大きさと形に成長していく可能性が高いのです。
食事の内容を見直すことも重要です。柔らかい加工食品ばかりではなく、適度に噛みごたえのある食べ物を取り入れることが推奨されます。
生野菜、果物、全粒穀物など、しっかり噛む必要がある食品は、顎の筋肉を鍛え、骨の成長を促します。これは、ジムで筋肉を鍛えるのと同じ原理です。使えば発達し、使わなければ衰えます。

授乳期間を長くすることも、予防策の一つです。母乳育児は、赤ちゃんの口腔周囲筋を適切に発達させ、正しい嚥下パターンを学ばせる貴重な機会となります。離乳食の開始時期や与え方も、子どもの発達段階に合わせて再検討する余地があります。
そして、鼻で呼吸できる状態を保つことが、正しい口腔姿勢の維持につながります。
これまでの歯科矯正は、主に見た目の改善を目的として、すでに形成されてしまった歯列不正を、ワイヤーやブラケットで力づくで修正するものでした。それは、曲がって育った木を、無理やり支柱で矯正するようなものです。
しかし、本当に必要なのは、木が最初から真っすぐ育つような環境を整えることです。つまり、症状が現れてから治療するのではなく、そもそも症状が現れないように予防することです。そのためには、幼少期からの適切な食環境、正しい口腔姿勢の指導、鼻呼吸の確保などが重要になります。
さらに、顎の問題を単独の問題として扱うのではなく、睡眠、呼吸、心血管系、神経系の健康と統合的に捉える視点が必要です。顎が小さいということは、単に歯並びが悪いということではありません。それは気道が狭いということであり、睡眠の質が低下するということであり、全身の健康リスクが高まるということなのです。
参考文献
- von Cramon-Taubadel N. Global human mandibular variation reflects differences in agricultural and hunter-gatherer subsistence strategies. Proceedings of the National Academy of Sciences 2011; 108(49): 19546-19551.
















