先日、フライトで食事の間にあまり見ない映画を流し見していました。
最近は数分見たら、もう見ることのできない映画ばかりになってきました。
映画「悪は存在しない(Evil does not exist)」は、何か時間が止まったような、目を凝らして見なくても良いゆっくりとした流れでしたので、流し見していました(自然の描写が多かったので、脚本とは別に癒されました)。
キャスティングも素人ばかり。セリフも棒読みで不自然でしたが、ラストシーンには久しぶりに釘付けになりました。
この映画は、は、長野県の美しい田舎町を舞台にしています。ある日、町中に環境破壊をもたらすグランピング施設建設の話が持ち上がります。
それに対して住民たちの反対の声があがります。
現実の社会では、企業は村長や上役たちを買収し、簡単に環境破壊が進みます。
そのような環境問題にフォーカスした映画と思っていたら、大間違いでした。
主人公の田舎暮らしをしている中年男性の巧(たくみ)が、都会から施設誘致のために動いている芸能プロダクションのスタッフから、「鹿は人を襲うのでしょうか?(崎谷注:何とバカな質問をさせるのかとあきれました)」と聞かれるシーンがあります。
巧は「鹿は臆病な動物だから人を襲うことは絶対にない。ただ半矢の鹿は襲うことがあるかもしれない」と述べます(崎谷注:一般に野生動物は臆病というか、慎重なのが通常です。ただし、襲われると反撃するのも一般的です)。
「半矢(はんや)」とは、矢や弾を受けて手負いの状態のことを言います。
この言葉がラストシーンにつながります。
主人公の巧は、最近妻を亡くし、娘の花と2人暮らしでした。
それもあって、巧は感情の平坦で、なにか魂が抜けたような様子で描かれていました。
巧と娘の花との仲もうまくいっているように思えないシーンが出てきます。
そして、巧が娘を小学校に迎えに行くのを忘れていた(PTSDで思考能力が低下している)ある日、娘の花が失踪します。
娘の捜索に、父親の巧と芸能プロダクションのスタッフが同行し、森の奥の広場で花を発見します。
花はそのとき、2匹の親子の鹿の前にいました。親は、半矢の鹿で、銃で打たれて手負いの状態でした。
花は、その2匹に近づきます。
そのとき、スタッフが制止しようと動こうとしました。その瞬間、巧はいきなりそのスタッフの首を絞め、意識を失わせます。
花は、半矢の鹿に襲われたのでしょう。
鼻から血を流し、意識を失って倒れていました。
巧は、娘に近づき、彼女の生死を確認し、森深くに入っていきました。
ここで映画は終わるのですが、おそらく巧は、娘と無理心中を図ったのではないかと推測しています。
私も還暦に近いているので、今この映画を見ると、巧の行動(抑うつ〜自殺願望から無理心中)は若気の至りに見えます。
しかし、巧の年齢設定(30代半ば)を考えると、私もその年齢では同じことをしなくても、考えはしたかも知れません。
実は、妻を亡くした巧や母親(そして以前の元気な父親も)を亡くした娘こそが、「半矢の鹿」であるというのがこの映画のテーマだと思います。
巧は、映画の中で感情をまったく出しませんが、生活の活力がなく、娘のことも忘れてしますくらい、傷ついています。
実際に、鹿が銃で撃たれる音を聞いても、感情が平坦でした(崎谷注:最初はなぜかわかりませんでした。)。
しかし、私は、母親も失い、そして以前の健全な父親も実質的に失った娘の方がもっと傷ついていたと思います。
その娘の傷を癒やし、成長を見守るのが残された父親の役目ではなかったでしょうか?
現代の日本社会では、30~40代そこそこでは、経験も知恵も不足しています(私もそうでした)。
このような結末になるのは致し方ないのかも知れません。
私も30代の巧であれば、「自然暮らしというが、環境破壊をしている人間などいない方が良い」と考えたでしょう。
都会のビジネスの餌食になるよりもマシとはいえ、自然暮らしと言いながら、野生の動物を殺めたり、居住地を追いやったりしているのですから。
(ちなみに、支配者層の“彼ら”は、気候変動のせいで、野生動物の生息域が狭まり、人間との接触が多くなって、パンデミックが起こるという、「気候変動―パンデミック」説というインチキを垂れ流しています。この気候変動とパンデミックは、彼らの富と権力の源泉となるからです。野生動物の生息域の減少とパンデミックになんの関係もありません。)
ただ、娘も犠牲にするのは、人間(ここでは父親の巧)のエゴが露見されて、なんとも言えない気持ちになります。
ちなみに、監督の年齢を調べると45歳で「火」の人でした(この若さと「火」の性質からは、最後の理解不能のシーンが必然的だったかも知れません😃)。
花の前に現れた手負いの親子の鹿は、実は巧と花だった。
久しぶりに変なラストシーン(少なくとも現在の私の感覚では理解できない)を見て、人間という種について、あるいは自分が「生きる」ことについて、改めて深く考えるきっかけとなりました😃。
残念ながら、映画の表題とは違い、現実社会では「悪(evil)は存在する」(形而上学的かつサイエンスの観点からも)ことを私たちは忘れてはなりません(^_−)−☆。