『ドライクリーニングの化学物質が引き起こす静かな脅威』
⭐️クリーニング店から持ち帰った服が肝臓を傷つける
朝、クリーニング店から受け取ったばかりのジャケット、パンツあるいはシャツを羽織るとき、独特の化学物質の嫌な匂いを感じます。

このケミカルな匂いは、実は私たちの肝臓に深刻なダメージを与えている可能性があることが、最新の医学研究で明らかになりました。その犯人は、テトラクロロエチレン、通称PCEと呼ばれる化学物質です。
2025年に『リバー・インターナショナル』誌に発表された画期的な研究は、ドライクリーニングで広く使用されているこの化学物質が、重度の肝臓線維症のリスクを3倍にも高めることを突き止めました(1)。
肝臓線維症とは、肝臓に瘢痕組織が蓄積していく状態で、放置すれば肝癌、肝不全、そして死に至る可能性のある深刻な疾患です。これは、まるで庭の土がゆっくりとコンクリートに変わっていくようなもので、一度固まってしまえば元に戻すことは極めて困難になります。

⭐️肝臓病の意外な第四の原因
私たちの多くは、肝臓病と聞けば、過度の飲酒を真っ先に思い浮かべます。確かに、これまで肝臓病は主に3つの原因で発症すると考えられてきました。
第一は過度のアルコール摂取、第二は肥満・糖尿病・高コレステロールに伴う肝臓への脂肪蓄積、そして第三はB型肝炎やC型肝炎などと呼ばれている病態(ウイルスは存在しないので、これは毒性物質の暴露)。
これらは、いわば肝臓病の「三大悪役」として、医学界でも一般社会でもよく知られています。
診察室で、医師たちはしばしば頭を悩ませる患者に出会います。お酒もほとんど飲まず、体重も標準的で、糖尿病もなく、ウイルス性肝炎の検査も陰性。それなのに、なぜか肝臓の状態が悪化している患者です。
「先生、私は健康的な生活を送っているのに、どうして肝臓が悪くなるのでしょうか」。こうした患者の切実な問いに、これまで医師は明確な答えを持ち合わせていませんでした。
同じように健康的な生活を送っているはずの二人の人間が、まったく異なる肝臓の運命をたどる背後には、目に見えない環境毒素の存在があったのです。
⭐️無色透明な液体の正体
PCEとは一体どのような物質なのでしょうか。この化学物質は、人工的に作られた無色透明の液体で、油や脂肪を溶かす優れた能力を持っています。
その特性ゆえに、ドライクリーニング業界では「魔法の溶剤」として長年重宝されてきました。水で洗えない高級な衣類も、PCEを使えばシミや汚れを完璧に落とすことができるからです(1)。
しかし、この「魔法の溶剤」の用途はドライクリーニングだけにとどまりません。PCEは工業用の脱脂剤として、金属部品の油汚れを落とすのに使われています。また、私たちの家庭でも、接着剤、シミ抜き剤、ステンレス用の研磨剤などに含まれています。
つまり、この化学物質は、私たちが思っている以上に身近な存在です。
PCEは揮発性が高いという特徴も持っています。これは、液体の状態から気体に変わりやすいということです。ドライクリーニングから戻ってきた服をビニール袋から取り出すと、あの独特の化学物質の匂いがするのは、PCEが服から蒸発して空気中に漂っているためです。
私たちはその空気を吸い込み、知らず知らずのうちにPCEを体内に取り込んでいます。

さらに深刻なのは、PCEが環境中に漏出した場合です。ドライクリーニング施設からの漏出や、産業廃棄物の不適切な処理により、PCEは土壌に染み込み、地下水を汚染します。
汚染された地下水が飲料水源として使われれば、私たちは知らないうちに毎日この化学物質を飲んでいることになります。
⭐️がんとの関連も指摘されている
PCEの健康への影響は、今回発見された肝臓への影響だけではありません。国際がん研究機関(IARC)は、PCEを「発がん性の疑いがある物質」に分類しています。これは、がんを引き起こす可能性が科学的に示唆されているという意味です。
これまでの研究では、PCE曝露と膀胱がん、多発性骨髄腫、非ホジキンリンパ腫といった血液のがんとの関連性が報告されてきました。つまり、この化学物質は、単に肝臓の線維化を引き起こすだけでなく、がんという最も恐れられる疾患のリスクも高める可能性があるのです。
こうした健康上の懸念から、米国環境保護庁(EPA)は行動を起こしました。ドライクリーニング業界でのPCE使用を10年間かけて段階的に廃止する計画を開始し、他の産業での使用にも制限を設けたのです。これは、政府機関がこの化学物質のリスクを深刻に受け止めていることの表れです。
しかし、規制が始まったとはいえ、問題が完全に解決したわけではありません。PCEは依然として特定の製品に使用されており、世界の一部の国々では規制が緩いか、全く存在しないこともあります。つまり、私たちは今なお、この化学物質の影響下にあるのです。
⭐️7パーセントもの人が汚染されている
では、実際にどれくらいの人々がPCEに曝露されているのでしょうか。
2017年から2020年にかけて採取された、20歳以上の参加者の血液サンプルを詳細に調べられました。その結果は衝撃的でした。調査対象者の約7パーセント、つまり100人中7人から、検出可能なレベルのPCEが確認されたのです。
これを日本に当てはめれば、成人人口約1億人のうち、700万人もの人々の血液中にこの化学物質が存在している計算になります。
さらに注目すべきは、PCE曝露と肝臓線維症の関係の強さです。測定可能なレベルのPCE曝露があった人は、曝露がなかった人と比べて、重度の肝線維症を発症する確率が3倍も高かったのです。
この関連性は、年齢、性別、人種、教育レベルといった他の要因を考慮しても変わりませんでした。つまり、若くても高齢でも、男性でも女性でも、どの人種でも、どんな教育背景を持っていても、PCEに曝露されれば肝臓が傷つくリスクが高まるということです。
⭐️毒の量が多ければ多いほど
研究で最も重要な発見の一つは、明確な「用量反応関係」の存在でした。これは医学用語ですが、簡単に言えば、「毒の量が多ければ多いほど、害も大きくなる」という関係です。これは、その物質が本当に原因であることを示す強力な証拠となります。
具体的には、血液中のPCE濃度が1ナノグラム(10億分の1グラム)毎ミリリットル上昇するごとに、重度の肝線維症を発症するリスクが5倍に増加したのです。
これは驚異的な数字です。たとえば、もしあなたの血液中のPCE濃度が誰かより2ナノグラム高ければ、あなたの肝線維症リスクは25倍(5の2乗)も高くなる計算になります。
この用量反応関係は、階段を一段ずつ上るごとに転落の危険が増していくようなものです。低い段にいるうちは比較的安全ですが、高い段に上れば上るほど、転落したときのダメージは深刻になります。PCE曝露も同じで、曝露量が増えるほど、肝臓へのダメージが蓄積していくのです。
⭐️お金持ちほど危険にさらされている
興味深いことに、研究では所得と曝露の関係についても明らかになりました。高所得層ほど、血液中に検出可能なPCEが存在する傾向が見られたのです。これは一見、逆説的に思えます。通常、環境汚染や有害物質への曝露は、貧困層により深刻な影響を与えると考えられているからです。
しかし、PCEの場合は事情が異なります。高所得層の人々は、高級なスーツやドレス、デリケートな素材の衣類を多く所有しており、それらを頻繁にドライクリーニングに出します。クリーニングから戻ってきた服を着るたびに、彼らはPCEの蒸気を吸い込んでいるのです。
しかし、最も高いリスクに直面しているのは、ドライクリーニング施設で働く労働者たちです。彼らは毎日、何時間もPCEの蒸気に直接さらされています。それはまるで、化学物質の霧の中で仕事をしているようなものです。

彼らの血液中のPCE濃度は、一般の人々よりもはるかに高い可能性があります。そして、それに比例して、肝臓へのダメージも深刻になるのです。
⭐️見えない毒素は他にもある
現代社会では、数万種類もの化学物質が使用されています。プラスチックに含まれる可塑剤、食品包装材に使われる防水剤、家具の難燃剤、農薬、工業排水に含まれる重金属など、私たちは無数の化学物質に囲まれて生活しています。
これらの多くについて、人体への長期的影響は十分に研究されていません。
今回のPCEの研究は、こうした「見えない毒素」が私たちの健康にどれほど深刻な影響を及ぼしうるかを示す、重要な警告となっています。

私たちが今見ているのは、おそらく巨大な環境汚染問題のほんの一部に過ぎないのでしょう。
⭐️私たちにできること
では、私たち一人一人は、この見えない脅威からどのように身を守ればよいのでしょうか。いくつかの実践的な対策が考えられます。
まず、ドライクリーニングを利用する際は、できるだけ「グリーンクリーニング」や「エコクリーニング」と呼ばれる、PCEを使用しない方法を採用している店を選ぶことです。
近年、環境意識の高まりとともに、水性洗浄や液体二酸化炭素を使った代替技術を採用するクリーニング店が増えています。

また自宅でもスチームアイロンを利用して、服のクリーニングができるものも販売されています。
忙しくでドライクリーニングという選択しかない場合。ドライクリーニングから戻ってきた衣類は、すぐにクローゼットにしまうのではなく、屋外やベランダなど風通しの良い場所で数時間から一日程度、空気にさらしてか内に持ち込むとよいでしょう。
これにより、衣類に残っているPCEの多くが蒸発し、室内での曝露を減らすことができます。
また、接着剤やシミ抜き剤などの家庭用品を購入する際は、成分表示を確認し、PCEを含まない製品を選ぶことも重要です。換気の良い場所で使用し、使用後は容器をしっかり密閉することも、曝露を減らす助けになります。
飲料水については、自宅の水源が地下水である場合、特に古いドライクリーニング施設や工業地帯の近くに住んでいる場合は、水質検査を検討することも一つの選択肢です。必要であれば、PCEを除去できる活性炭フィルターなどの浄水装置を導入することも考えられます。
現代文明は、便利さと引き換えに、無数の化学物質を生み出してきました。それらの多くは、短期的には無害に見えます。しかし、長年にわたって少しずつ体内に蓄積し、やがて深刻な健康被害をもたらします。
クリーニング店から受け取った真っ白なシャツを見るとき、その裏側に隠された化学物質のことを思い出してください。そして、私たちの選択が、自分自身の健康だけでなく、地球環境全体に影響を与えていることを忘れないでください。

便利さと安全性のバランスを、私たちはもう一度、真剣に考え直す時が来ています。
参考文献
1. Lee BP, Park J, Dodge JL, Terrault NA, Khalili M, Roberts JP, Loomba R. Tetrachloroethylene is associated with presence of significant liver fibrosis: A national cross-sectional study in US adults. Liver International 2025; 45(11): DOI: 10.1111/liv.70398.

















