一昨日から1日半、大地再生・日本再生の先駆者である矢野さんと濃密な時間を過ごすことができました。
能登半島の再生事業の合間を縫ってお時間を頂くことがで光栄でした。
たった1日半でしたが、学ばせて頂いた内容が無数にあり、いま頭を整理中です😃。
来月の矢野さんとのリトリートが今から楽しみです。
とにかく、これほど実行能力・行動と自然観察・考察の両方が優れている日本人が存在したことに驚愕と感心いたしました。
別れ際に、矢野さんからとても重要なご質問を頂いたので、それに対するわたしの回答をここでシェアしたいと思います。
それは、
「小学生でも考えてできるようなことが、いくら言ってもできない大人が多い。なぜ現在の大人は考えることができないのか?」
というご質問でした。
大地再生で修行した人でも、見かけだけはできているように見えても、実際は「大地に“脈”を通せていない」事例が多いようです。
作業や仕事をするときに、必要とされるものは、大まかに分けて、実行能力・行動とそれのもとになる思考(理念・戦略)です。
実行能力とは「具体性」であり、わたしたち一般の人間が得意とするところです。
具体的に何をどのように行うかというものです。
技術や知識といったものがこの具体性にあたります。
明治以降の日本の教育は、この技術や知識などの「具体性」を中心に据えてきました。
これらの技術や知識だけで済ませられる範囲の、たとえば車を作る、家を建てる、収穫をあげるなどに専念してきました。
この具体性というものは、すべてが繋がっている自然を個々に分断し、その個々だけを見るというものです(サイエンス・医学の世界もこれと同じことをやっています)。
しかし、明治までの日本では、その実行能力以上に、自然観察とそれに基づく思考(これを「抽象性」と呼びます)を大切にしていきました。
なぜなら、この自然観察とそれに基づく思考(知恵)があって初めて、実行が開始されるからです。
個々の実行だけだと、それは自然全体の絶妙なバランス(結(ゆい)や柵(しがらみ))を破壊してしまいます。
わかりやすい例を挙げましょう。
自然の山のど真ん中に、鉄筋の家やダムを作ります。
その鉄筋の家やダムを作る技術や知識は持っていても、それが自然・生態系全体に及ぼす影響に思考が及ばない場合、その行為はやがて山崩れや植生・動物の死滅や海洋の破壊までもたらしていきます。
自然の生態系がどのように繋がっているのかという自然観察や思考がない限り、個々の具体的な知識や技術は、全体の破壊をじわじわと呼び寄せるのです。
実際に、この世界でも稀にみる自然豊かな日本でさえ、加速度的に全国でその破壊が進行しています。
明治以降は、この一番大切な本流となる抽象思考を切り捨て、その支流にある具体性(技術・知識)ばかりを教えてきました。
自然観察と思考(抽象性)には、膨大なエネルギーを必要とすることもあり、糖のエネルギー代謝が低下した現代人の不得手とするものです。
エネルギーを自然観察や思考に回す余裕がないため、より具体的な作業に従事するだけに少ないエネルギーを振り分けています(考えるよりも体を動かした方が楽)。
そのエネルギーさえない人間も昔から存在し(現代では加速度的に増加している)、ただ座っているだけでお金がもらえる(あるいは失業保険、生活保護・母子家庭制度などの国の制度や会社の福祉にぶらさがる)楽できる道を選びます。
これはある意味当然の流れにあります。
なぜなら、支配者は、わたしたち大衆に自然観察・思考をされることを一番忌み嫌うからです。
彼らの望むものは、わたしたちを“歯車”の一つとして使うことだけです。
その成れの果てが、現在の社会状況を生んでいます。
“彼ら”が人工的に作り上げてきたものは、わたしたち大衆に「思考」をさせない社会なのです。
具体的事象から、一歩さがって全体を俯瞰すると、必ず一定の自然の法則が見えてきます。
これは、最終的には糖のエネルギー代謝(および太陽のエネルギー代謝<11月の水の講座で詳述します(^_−)−☆>)を高めて、まず思考するエネルギーを充電しないと始まりません。
その上で、具体的な事象をもたらす、目に見えないもの(エーテル)を思考する訓練が必要です。
この訓練が、プラトンたちが人類に残した重要な遺産だったのです。
矢野さんはこの両方(思考と実行)が飛び抜けている人です。
矢野さんのお話にもありましましたが、江戸時代までの日本人には、矢野さんのような知恵と実行能力の両輪が回っている人がたくさん存在したのでしょう。
その痕跡を追っていくことで、世界にはない最後の“桃源郷”日本の本当の姿が見えてきます(^_−)−☆。